にじとまめ。

ばあちゃんとのお別れ。

つれづれなるままに書いています。

生きることと死ぬことは隣り合わせ。

生まれた時から一緒に住んでいたばあちゃんが、2月末に旅立ちました。

90歳を超えても本当に元気で、自分の身の回りのことは自分でする!が鉄則でした。

洗濯、掃除(できる範囲)、朝ごはん、いりこの出汁とり、お友達ともお出かけしたりする活動的なばあちゃん。

どこかで家族に迷惑をかけてはいけない、という一心はずっと感じてました。

昨年8月のお盆前に、脳梗塞で倒れ、そこからは入院生活でした。

入院中、Cにも罹患し、退院の日取りも決まっていたころ、再度Cに罹患。

同時期に腸閉塞を起こし、Dr.からは、治療すれども改善なく、手の施しようがないとの言葉と、余命幾ばくもない宣言。

家族としてはこのまま家の畳を踏ませてあげられないのか、

ばあちゃんが一番望んでいた、死ぬるときは家がいいという希望も叶えられないのか、

と絶望にも近い気持ちでした。

ならば、面会だけでもかなわないのか、との母の問いに一人10分ずつならいいとの返答。

すぐさま、面会が叶い、ばあちゃんと会うと、母の名前を呼び、わぁ嬉しい!!と喜んだそう。

そして、帰りたいと切に願う姿に、母も、連れて帰ってあげたいと思い切り、関係機関の調整を入れてもらう。

その日からあっという間に、あれよあれよと、いろんな手配(介護用ベッド、帰ってくるときの介護用タクシー、

訪問看護、訪問介護、往診など)が日曜日も挟んだが3日で整う。

時間は待ってくれないことを天が采配したのだと思う。

帰ってくるときは、点滴は抜いて帰ることになった。そのことは、家での看取りを意味する。

退院=看取りの覚悟を突き付けられた私たち家族だったけど、そのことに迷いはなかった。

同じ死ぬのなら、ばあちゃんが一番望んでいた形での死を迎えよう。

帰ってきたときのばあちゃんの一番意識状態のいいときに、

いろんな人に会わせてあげよう、と身内に連絡を入れる。

生きている最期の姿、生きるってこんなに尊いことなんだと、身をもって教えてくれた。

小声で話していたばあちゃんが、どんどん話せなくなり、頷くことしかできなくなり、

次第に意識も遠のいていく姿は、お別れへのカウントダウンだった。

ばあちゃんの周りにはいつも誰かがいて、ゆっくりと時間が流れて、時に昔よく歌っていた演歌もかけたりして、

お家での最期の時間を過ごせたことに悔いはない。家族もきっとばあちゃんもそう思ってくれていると思う。

最期、呼吸が途絶えるまで、息をし続ける姿は本当にあっぱれでした。

ばあちゃんの最期の一息を家族で看取れたこと、看取らせてもらえたこと、幸せだったよ。

息を引き取って、見届けてから、訪問看護ステーションに連絡を入れました。

看取るという覚悟、それでも家で死にたいということ、ばあちゃんも相当な覚悟で帰ってきたのだと思う。

最期の最期のばあちゃんの顔が、ほんとうに綺麗な天使のようでした。

思い残すことないよという顔でした。

今は阿弥陀様の腕の中に抱かれていると、お寺さんが言ってたので、そうだと思います。

ばあちゃん、ばあちゃんからたくさん教えてもらったこと、忘れないよ。

じいちゃんとも会えたかな。33年経っても会いに来てくれないとボヤいていたけど、生きることで伝えることが

あったんだよね。ひいまご3人にも会えて、(まなととはそちらで会えたかな)良かったね。

ばあちゃん、ありがとう。

何回も、ありがとうが直接伝えられて良かったよ。

また、あちらの世界で会う日まで、私は私でしっかり生きるね。

葬儀の時に、父が「母はとても小さな体の人でしたが、家での存在感はとても大きなものでした。」と言ってたけど、

まさしく、ちっこい体にデーンと構えた笑顔がみんなの印象に残ってる。

私の友達にも、梅干し持って帰らせたり、漬物あげたり、黒豆炊いたのあげたり、本当に世話焼きなばあちゃんでした。

なんでも手作りが好きなばあちゃん、私の手作りもばあちゃんから受け継いだものなのかもしれないね。

ありがとう。

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